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横浜ベイスターズ


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横浜ベイスターズ(Yokohama BayStars)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。
球団事務所は本拠地の横浜スタジアムの近くにある、関内新井ビル7階(横浜市中区尾上町)。保護地域は神奈川県。
2軍の球団名は湘南シーレックス。2軍の本拠地は横須賀スタジアム(神奈川県横須賀市)。練習所及び合宿所は、横須賀市の横浜ベイスターズ総合練習場。



球団の歴史



下関・大阪=洋松・川崎時代


元は大洋漁業の実業団チーム。1930年代には都市対抗野球などに出場、1948年に国体で優勝し一躍名をあげる。
1949年プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、ノンプロ強豪の大洋野球部からは多くの選手が引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた中部兼市社長は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。
同年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セ・リーグに加盟。山口県下関市をフランチャイズ、下関市営球場(現在の下関球場とは別)を本拠地球場とした。
1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいよう-)に球団名を改称。巨人からベテランの中島治康、平山菊二をもらい受けたが、国体優勝時の主力選手は軒並み他球団に引き抜かれており、チーム力の低さは如何ともし難く1950年5位、1951年6位、1952年4位。
1951年、不採算から経営悪化した広島カープとの合併も検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって合併は回避された。
1953年1月10日、前年の取り決め(シーズン勝率3割未満の球団は解散)の該当球団となった松竹ロビンスと対等合併し大洋松竹ロビンス(たいようしょうちく-)、翌1954年には通称名の洋松ロビンス(ようしょう-)に改名。ただ、1953年度は球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つのチームを運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属チームから支給された。そして主催試合は興行面の利点から大阪球場で行われる。1年目のシーズン終了後に球団運営会社が正式統合され、事務所も大阪球場内に置かれた。
1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退。中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域を神奈川県へ移転。川崎市の川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして心機一転。しかし成績は低迷。エース秋山登が毎年の酷使に耐え抜くも、チームは1954年から1959年まで6年連続最下位。
1960年、前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出し、前年最下位からのリーグ優勝・日本一を果たす。日本シリーズでは毎日大映オリオンズ相手に4勝0敗であった。しかしその後は優勝から遠ざかる。
クリート・ボイヤー、桑田武、松原誠、平松政次、ジョン・シピンといった名選手を擁したものの総合的な戦力は低く、チーム勝率は5割を超えることすら珍しかった。
読売ジャイアンツの9連覇中、大洋ホエールズは強力な打線で読売ジャイアンツの投手陣を粉砕するが、貧弱な投手陣が読売ジャイアンツに打ち込まれで、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時打ち合いで読売ジャイアンツに勝てるチームは大洋ホエールズぐらいであった。それすらも川崎球場の狭さ(両翼:89m,中堅:118m)と無縁では無い。読売ジャイアンツの10連覇が途絶えた後、ジョン・シピンや松原誠など主軸打者の多くが読売ジャイアンツに引き抜かれていった。
1976年、川崎から横浜への移転計画を画策していた大洋球団は、横浜における新球場建設の資金を捻出するため、飛鳥田一雄横浜市長の斡旋により国土計画(現プリンスホテル)の出資を受け入れる。これにより、大洋球団の株式保有率は、大洋漁業55%、国土計画45%となる。
1977年、オーナーであった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎が、大洋球団オーナーは三男の中部新次郎がそれぞれ継承した。


横浜大洋時代


1978年、国土計画の主導で横浜市に建設した横浜スタジアムに移転、都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいよう-)に改称。これにより川崎時代よりもファンが増加したとされる。この年、国土計画の持つ大洋の球団株式は、クラウンライターライオンズ買収のためニッポン放送とTBSへ2:1の割合で売却された。これより先2001年まで、球団株式保有率は大洋漁業(のちにマルハ)55%、ニッポン放送30%、TBS15%となった。
1982年、長嶋茂雄を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある関根潤三を監督に迎えたが、長嶋招聘は失敗した。
1982年のシーズン終了間際の試合で、打率1位であった長崎慶一(当時「啓二」)に6厘差で迫っていた田尾安志を5打席連続敬遠し、長崎を首位打者にしたものの、チームとしては先頭打者での敬遠で走者となった田尾をあっさりホームへ返してしまうなど大差で敗れ、その結果田尾の所属する中日ドラゴンズの優勝が決まった。ちなみにこの試合の前は中日と巨人が並んだ状態であり、大洋が勝利した場合は巨人が優勝だった為、巨人ファンからは「回の先頭打者である田尾へ敬遠した大洋の行為は故意敗退行為だ」と連盟に試合の無効を主張する抗議(結論は却下)が行われ、巨人ファン以外からも「リーグ優勝が決まる試合でチームの勝利よりも個人の記録を優先させるのはどうか」という苦言が集中した。
1985年、近藤貞雄が監督に就任。「スーパーカートリオ」(後述を参照)を売り出し注目されたものの、チーム成績は振るわず近藤貞雄監督は2年で退任。
1987年には広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎えるが、成績は振るわず。
1992年11月11日、親会社の大洋漁業がコーポレートアイデンティティ実施によりマルハに改称することに伴い、横浜大洋ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。またこの時、中部藤次郎の死去により、弟中部慶次郎が大洋漁業社長となり、球団のオーナーにも就任した。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使用した「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。が、中部はかつて大洋漁業の主力事業であった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示し、その結果、愛称は「ベイスターズ」となった。(「捕鯨をしている会社が球団名に鯨を使っているから祟られて優勝できない」という説もある。)余談だが翌年、訪米した宮澤喜一首相が、捕鯨の規制強化を求めるビル・クリントン大統領に対して「かつての日本の商業捕鯨の中心であった大洋漁業もホエールズという球団名を捨てました」と、この大洋の球団名変更を話の種にしている。

横浜ベイスターズ時代


1993年、近藤昭仁が監督に就任。この年から始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に巨人の駒田徳広を獲得。また、高木豊・屋鋪要・市川和正ら主力選手が大量解雇され、駒田獲得資金捻出の影響などと言われる。
1994年、獲得した駒田徳広の他、佐伯貴弘や波留敏夫などを起用して若返りを図るが、混戦のシーズンの中最下位に終わる。
1995年、4位ながらも12年ぶりのシーズン勝率5割台を果たす。しかし、近藤監督の評価は芳しくなく、この年限りで任期満了退任となった。また、鈴木尚典が3番レフトに定着。後のマシンガン打線を構成する主要なメンバーがほぼ出揃った。
1996年、大矢明彦が監督に就任。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも5月以降失速、5位に終わる。
1997年、権藤博をバッテリーチーフコーチに迎える。シーズン後半に首位・ヤクルトを脅かす急追を見せたもののあと一歩及ばず37年ぶりのリーグ優勝を逃す。 しかし、勝利への執念が選手に根付き、翌年の快進撃につながる事となった。 大矢監督は快進撃をサポートしつつも2年契約を終えオフに辞任。
1998年、権藤博が監督に就任。抑えの佐々木主浩を不動の中心とする投手陣と、一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」が噛み合い38年ぶりのリーグ優勝・日本一を果たした。佐々木の愛称にちなみ大魔神社が建立される。

本拠地の横浜スタジアムでの応援の様子1999年、この年もマシンガン打線が絶好調でチーム最高打率を叩き出すものの、投手陣が三浦大輔の不調や野村弘樹・佐々木主浩の故障などで揃わず、3位に終わる。
2000年、金城龍彦が新人王と首位打者の二冠に輝くものの、優勝争いには届かず2年連続の3位。
ファーム組織を湘南シーレックスと改称し、独立採算を目指した活動を開始する。
2001年、森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、ルールに救われる形で5年連続のAクラス(3位)を確保する(この年の順位に関しては後述)が、これは「日本プロ野球史上最もおかしいAクラス」という声が少なくない。
シーズンオフに親会社(筆頭株主)がマルハからTBS(東京放送)へ移行し、オーナーが当時の社長砂原幸雄となった。TBSがスポーツ団体の経営をするのは国際プロレス以来である。これに際し、TBSラジオで巨人戦以外の週末のデーゲームをTHEベースボール・ベイスターズと題して放送を開始した(しかし、同時間帯のレギュラー番組の好調により1シーズンで終了)。
2002年、開幕から低迷を続け、森監督がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされる(最終勝率.363)。3年契約の2年目であったが、この年限りで事実上の解任となる。
2003年、山下大輔が監督に就任。若手重視・攻撃重視の起用がことごとく空回りし、勝率も前年を下回る.324を記録。5位からも22.5ゲーム以上離され(この年の1位と5位のゲーム差は20)、他球団や他球団のファンからは完全にお荷物扱いされる。
2004年、シーズン終了目前まで5位争いを続けるが、最終戦に敗退し45年ぶりの3年連続最下位が確定。シーズンオフに一場靖弘への金銭授受の問題からオーナーが砂原幸雄からTBS副社長の若林貴世志に交代。
2005年、牛島和彦が監督に就任。不調だった投手陣が復活、4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。また、エグゼクティブ・アドバイザーとして石橋貴明(とんねるず)を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせる等新しいファンサービスを試みた。
2006年、共に福岡県の東福岡高校出身である村田修一・吉村裕基の台頭があったものの、投手陣の先発駒不足や二段モーション禁止の影響、野手陣の相次ぐ不調・故障などにより、再び底辺をさまよう。球団側は続投を希望したものの、牛島監督は最下位の責任を取り、シーズン途中の9月3日にこの年限りの退任を発表。森・山下に続き、またしても2年で監督が交代することとなった。シーズンオフには投手陣強化のため、毎年のように故障続きで戦力として計算しにくい多村仁をソフトバンクに放出し、寺原隼人を獲得。また、ここ数年毎年のように移籍が噂されていた巨人の仁志敏久を、小田嶋正邦+金銭のトレードで獲得する。さらには、この年チーム唯一の2桁勝利の門倉健が減俸査定に不満を持ち、FA宣言をして巨人に移籍。激変のオフとなった。
4月3日、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指すNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティを設立し、活動を開始した。理事長はOBの平松政次、副理事長は畠山準が就任した。
2007年、10年ぶりに大矢明彦が監督に復帰。前年FA移籍した門倉健の人的補償として、215勝を挙げ、43歳にして未だ健在の工藤公康を獲得。
1月15日、産業能率大学と業務提携し調印することとなる。ファームの湘南シーレックスをスポーツビジネスの授業に取り入れていくことに決まった。
3月30日~4月13日、開幕から黒星と白星が交互に続く所謂「ぬけぬけ」が12試合続いた。開幕からとなるとこれはプロ野球新記録。


-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-



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