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小机城


小机城(こづくえじょう)は、武蔵国橘樹郡小机郷(現在の神奈川県横浜市港北区小机町)にあった城(平山城)。現在は、小机城址市民の森として、城の遺構が整備されている。

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小机城は、永享の乱(1438年 - 39年)の頃に関東管領上杉氏によって築城されたとされるが、正確な築城年代は分かっていない。

この城が歴史的に登場したのは、1478年(文明10年)に起きた攻守戦である。山内上杉家の家宰であった長尾景春が、父の死後に家宰職を相続できなかったことに端を発し、主家に対する反乱を起こした。このとき景春の味方をした豊嶋氏がこの城に立てこもり、敵方の太田道灌がこの城の攻撃をした。この時、道灌は近くの集落の松の大木の下に腰掛け、「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠んで味方を鼓舞した。程なく、鶴見川対岸の亀の甲山に陣をとり、約2ヶ月をかけて落城させたとされる。道灌が歌を詠んだ松は、以後「硯松」と伝えられ、三度の植えなおしを経て現存(羽沢町)する。

その後、廃城となったが、この地域が後北条氏の勢力下に入ると、北条氏綱の手により修復され、家臣の笠原信為が城主として配置され、小机衆が組織された。笠原氏は、小机城を中心に付近の村に僧侶を招き寺を建立するなどの城下の整備に力を注いだと見られ、徳川時代になっても、その子孫は代々、この地の付近に住んでいた。その後、城主は北条氏政の弟氏秀、氏堯と替わっている。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原の役の際には、無傷のまま落城した。その後、徳川家康の関東入府のとき、廃城とされた。


近現代
城跡は地元の人々に「城山」と呼ばれ、1892年(明治25年)2月5日、橘樹郡小机村の九大字(下菅田、羽沢、三枚橋、小机、鳥山、片倉、神大寺、六角橋、岸根)は、「小机」としていた村名を改め、城があった郷すなわち「城郷」(しろさと)村とすることを村議会で決定した。城郷村の名は以後、各集落が1927年(昭和2年)に横浜市に編入されるまで使われた。


現状
小机城のあとは、小机城址市民の森として整備されており、本丸、二の丸跡などの主要な部分は残されている。しかし、城の西側は第三京浜の開通により破壊された。また、この城跡の下は、横浜線の城山トンネルが貫通する。


周辺
城郷村内の九大字には、小机城の合戦で亡くなった兵士を供養した「九養塚」、「十三塚」や、太田道灌が小机方の残兵を処刑した「磔原」、その血で谷戸が赤く染まったといわれる「赤田谷戸」などの地名が現存する。

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帷子川




帷子川(かたびらがわ)は、神奈川県横浜市を流れる二級河川。工業用水三級。現在の横浜市保土ケ谷区天王町一帯は、片方が山で、片方が田畑であったため、昔『かたひら』と呼ばれていた。その地を流れていたので『かたびらかわ』と呼んだのが名の由来だとされているが諸説ある。

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神奈川県横浜市旭区若葉台近辺の湧水に源を発し、保土ケ谷区を南東に流れ、西区の横浜駅東口ポートサイド地区で横浜港に注ぐ。

もともとは蛇行の激しい暴れ川で、水害の多い川であったが、多くの地点で連綿と河川改良が進められた。近年、川の直線化や護岸工事など、大規模な改修が進められ、西谷から横浜駅付近に流す地下分水路や、親水公園、川辺公園などが造られた。

保土ケ谷区上星川付近には、かつて捺染業が多く存在した。この染色・捺染の染料を流すこと(生地を水に晒す工程)や、周辺の生活排水や工場廃水などが増え始め、一時期、汚染が進んだ。また上流域旭区にゴミ処理場があり、その影響も心配された。しかし近年の環境問題に社会の関心が向いたことにより下水道の普及など状況は改善されつつあり、魚の放流などもされるなど、自然が戻りつつある。

平安時代:河口(天王町近く、当時はここまで入り海だった)は帷子湊(かたひらみなと)として栄えた。現在の橘樹神社付近は「かたひらの宿」「かたひらの里」として栄えた。
江戸時代:河口に舟着場があり、薪炭などの物流の地として栄えた。
1732年(享保16年):川幅と河身の改修工事が行われる。こののち明治時代にかけて入り海(袖ヶ浦)の埋め立てが進み、埋め立て地に帷子川本流と新田間川・派新田間川・石崎川が残された。
明治時代:絹のスカーフの輸出増大を受けて、染色・捺染工場が集まる。八王子からの「絹の道」が通り、天王町が栄えた。
1923年(大正12年)9月関東大震災後:国の復興事業として改修工事が行われる。
1958年(昭和33年):台風22号(狩野川台風)による水害
1970年度(昭和45年度):都市基盤河川改修事業による改修工事が行われる。
1982年度(昭和56年度)~1996年度(平成8年度):地下トンネルと帷子川分水路が整備される。(神奈川県・横浜市の事業)

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横浜市内の川【1】いたち川


いたち川(いたちがわ)は、神奈川県横浜市栄区を流れる河川。鼬川と表記されることがある(後述)。一部の地図にはいたち川沿いに稲荷川と表記されているが、稲荷川(矢沢堀)は桂台住宅地付近の遊水池から流れる小川の名称である。

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鎌倉市境に近い荒井沢を水源とする洗井沢川、港南区境に近い瀬上池周辺(瀬上市民の森)を水源とする瀬上沢、金沢区境に近い上郷町付近を水源とするいたち川が、栄区役所付近で合流する。西へ流れ、JR東海道・横須賀線と根岸線の線路が分岐する付近の栄区笠間町と栄区飯島町の境界で柏尾川に合流する。瀬上沢と洗井沢川は小川で、総称していたち川と呼ばれることもある。


名称の表記


いたち川のいたちは、「けものへん」に「由」(㹨、U+3E68)である。いたち川周辺の橋や看板、一部の地図などで確認することができる。多くの辞書に掲載されていない字ではあるが、この川の名前が鎌倉時代の書物にこの字で書かれていたことから、使い続けていると言われる。

なお鼬の字がパソコン上で簡単に打ち出せることから、ブログなどでは鼬川と表記されることもある。本来の字は康熙字典や大漢和辞典に載るが、JIS X 0208(JIS第一水準・第二水準)では定義されていないため、標準的な日本語フォントには含まれておらず、多くのコンピューターでは打ち出すことができない文字である。 なお、UnicodeではU+3E68に、JIS X 0213ではJIS第四水準で定義されている。

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こども自然公園

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こども自然公園は、神奈川県横浜市旭区に所在する都市公園である。別名、大池公園とも呼ばれる横浜市が管理する都市公園であり、横浜市旭区最大の面積を持つ。大池と呼ばれる池が公園の中心にあり、この池にちなんで「大池公園」とも呼ばれる。相鉄二俣川駅南口から伸びる「自然公園通り」の突き当たりにあり、二俣川駅南口から相鉄バスも利用できる。バス停は「万騎が原大池」または「万騎が原中央」が近い。

こども自然公園の南側には戸塚カントリークラブが、南東側には横浜カントリークラブが隣接している。周辺は住宅街であるが、相鉄二俣川駅・緑園都市駅と東海道線東戸塚駅の中間の位置に、広大な緑地帯を形成している。

公園内には、横浜市立野毛山動物園の分園である、「万騎が原ちびっこ動物園」や、バーベキュー広場のような家族向けの施設が充実している。また、教育水田やホタルの生息地、青少年野外活動センターなど、教育向けの施設も多い。

公園の中央の大池は約6,600㎡の広さがある。古くから二俣川村本宿のため池であったが、江戸時代の中頃に地頭渡辺氏の命により六兵衛親子が現在の大きさに拡張したと伝えられている。池のほとりには「めだかの学校」の歌碑がある。

横浜市旭区の中心的な公園であり、「旭ふれあい区民祭り」や「旭ジャズまつり」などのイベント会場としても使用される。

交通アクセス

相模鉄道 本線 二俣川駅 徒歩15分
相模鉄道 いずみ野線 南万騎が原駅 徒歩7分
保土ヶ谷バイパス 南本宿インターチェンジ

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小田和正

小田 和正(おだ かずまさ、1947年9月20日 - )は、日本のニューミュージックを代表するシンガー、シンガーソングライター。元オフコースのボーカル兼リーダー。株式会社ファー・イースト・クラブ(FAR EAST CLUB INC.)代表取締役社長。実家は神奈川県逗子市。東京都渋谷区に在住。身長172cm。血液型はA型。

神奈川県横浜市金沢区出身。
金沢文庫すずらん通り商店街にある小田薬局で次男として育つ。バイオリンを習っていた。
関東学院六浦小学校 - 横浜市立八景小学校 - 聖光学院中学校・高等学校 - 東北大学工学部建築学科 - 早稲田大学大学院理工学研究科(建築学専攻、池原義郎研究室)修士課程修了。
建築家の藤森照信は学部時代からの友人。

1969年 11月2日 第3回「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」(LMC)全国グランプリ大会(新宿厚生年金会館大ホール)で赤い鳥に次いで、第2位となり、最優秀歌唱賞を受賞する。

将来、建築家を目指していた小田は高校時代から同級生らと続けてきたフォークグループ「ジ・オフ・コース」のアマチュア音楽活動の有終の美を飾るべく、自信をもって臨んだ「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」で不本意にも2位になったことで、「オフコース」として、プロの道を歩み出すことになる。

数年間は売れない時代が続いたが、やがて、1970年代から1980年代にかけて、次々とヒット曲を生み出し、時代を代表する人気グループとなった。オフコース時代のシングルのA面のほとんどは小田の曲であり、そのシンプルで、ストレートに愛を歌う歌詞とハイトーンの澄んだボーカルはオフコースの大きな特色であった。オフコース時代のヒット曲には「さよなら」「Yes-No」「君が、嘘を、ついた」などがある。

オフコース時代から、ソロ活動は始めてはいたが、1989年のオフコース解散以後に活動を本格化させる。特に、1991年の『東京ラブストーリー』というトレンディドラマの主題歌『ラブ・ストーリーは突然に』が大ヒットし、オフコース時代にも達成できなかった「オリコンシングルチャート第1位」と「シングルのミリオンセラー」の達成を一挙に成し遂げ、それ以降の曲もヒットを重ねている。

CMとのタイアップや、他のアーティストへの楽曲提供や、コラボレーションも行うようになった。また、初めて持ったテレビのレギュラー番組は大変な反響を呼んだ。また、音楽以外の分野では映画やドキュメンタリーの制作なども行った。

オフコース時代

1970年 「ジ・オフ・コース」というグループ名でシングル『群衆の中で』(作詞:山上路夫・作曲:BETTY DEAN・編曲:馬飼野俊一)でデビュー。
1973年、初めて自身の作詞・作曲した曲、『僕の贈りもの』がシングルとしてリリースされる。この曲からグループ名が「オフ・コース」になる。
その後オフコースとして数々のシングルやアルバムを発売するも、なかなか売れない時代が続いた。当時は時代的に思想的なメッセージ性の強い曲が受けていたので、オフコースのようなストレートに愛を歌うグループは冷ややかに見られ、客席から「帰れ!」とブーイングされたこともあったという。
同じ事務所の杉田二郎のバーター(知名度を上げるため、事務所の先輩の出演する番組に抱き合わせで出演)としての活動が多く、ラジオのDJもやっていたが、受けなくて苦痛だったという。
当時、大人気だったかぐや姫や井上陽水の活躍を横目に辛い時期を過ごしていた。しかし、地道にコンサート活動を続けてきた結果、徐々に『眠れぬ夜』、『秋の気配』、『愛を止めないで』とスマッシュヒットを重ね、1979年12月に発売されたシングル『さよなら』(小田和正 作詞・作曲)が72万枚(オリコン最高位2位)の大ヒット、一躍人気ニューミュージックバンドとなった。
シングルA面は主に小田が手掛けており、『Yes-No』、『I LOVE YOU』、『YES-YES-YES』、『言葉にできない』、『君が、嘘を、ついた』、『君住む街へ』などのヒット曲を生み出す。
シンコペーションや転調を多用した印象的なメロディや、行間のある叙情的な作詞は、オフコース時代に小田和正のものとなった。
1981年 11月23日 NHK教育テレビのドキュメンタリー番組『若い広場』でオフコースとして初めてのテレビ出演。
1982年
1月22日~6月30日まで、「Off course Concert 1982 “over”」 全国28ヶ所69回公演の全国ツアーを行う。
9月3日、ファンクラブの手伝いをしていた女性と結婚。(現在、子供はいない・・街で騒ぐ子どもの声が嫌いで、そういう子どもに育てない自信がないから作らないとの本人の談がある)







ソロ活動の成功

オフコース在籍中の1985年に、松任谷由実・財津和夫との共作でリリースしたシングル『今だから』がヒット。翌1986年にシングル『1985』でソロデビュー。1989年、オフコース解散と同時にソロ活動を本格化させる。
1991年、フジテレビ月9ドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌として制作した楽曲『ラブ・ストーリーは突然に』が、ドラマと見事なコラボレーションを成し、ドラマ・主題歌共に大ヒット。オフコース時代に叶わなかった、「オリコンシングルチャート第1位」と「シングルミリオンセラー突破」を一挙に成し遂げた。
その後は、ヒットメーカーとしての地位を確立し、楽曲はドラマ・CMなどに積極的に採用され、『伝えたいことがあるんだ』、『キラキラ』、『まっ白』などのヒット曲を生み出している。
またオフコース時代を含む過去の楽曲を集め、新アレンジで再録音したアルバム『LOOKING BACK』『LOOKING BACK 2』や『自己ベスト』は、幅広い年代に支持される大ヒットとなり、改めて小田サウンドの力を見せつけた。
2005年にはオリジナルアルバム『そうかな』、2007年にはシングル『こころ』で、それぞれオリコンチャート週間1位を獲得。とかく過去の楽曲が注目・起用されがちな日本の同世代アーティストの中で、新曲で音楽シーンに存在感を示すことができる貴重な存在となっている。

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大岡川桜まつり

大岡川に寄り添う800本の桜並木を主役にさまざまなイベントが盛り上げます。

イベント開催期間:2008年4月5日(土)・4月6日(日)
ボンボリ点灯期間:2008年3月15日〜4月13日
※期間中は大岡川沿いにボンボリ点灯と一部ライトアップが行われます。

最寄駅:京浜急行線  :黄金町駅または日ノ出町駅
 横浜市営地下鉄:板東橋駅または伊勢佐木長者町




横浜で桜を楽しもう【1】三ッ池公園

神奈川県立三ッ池公園(みついけこうえん)は神奈川県横浜市鶴見区にある総合公園。

名前のとおり、園内には三つの池(上の池、中の池、下の池)がある。園内には35品種1000本を超える桜が植えられており、日本さくら名所100選の一つに選定されている。ソメイヨシノが7割を占め、春には花見客で賑わう。また、神奈川県が選定した「かながわの探鳥地50選」にも選ばれており、林間の小鳥や池の水鳥も多くの種類が見られる。

園内には軟式野球場やプール、テニスコートなどが整備されているほか、tvkの送信塔もある。

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園内にある3つの池は、江戸時代の1787年(天明7年)に、農業用水のため池として浚渫・整備された。その後、1941年(昭和16年)には都市計画緑地(防災大緑地)に指定され、1950年(昭和25年)から失業対策として周辺の公園整備に着手した。1954年(昭和29年)に県立公園に指定され、1957年(昭和32年)には神奈川県立の都市公園に指定された。

2005年より全面改良工事が行われている。完了は未定。

所在地 - 神奈川県横浜市鶴見区三ッ池公園・上末吉4丁目・梶山1丁目
管理者 - 神奈川県
開園 - 1957年(昭和32年)4月9日
面積 - 29.7ha

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アクセスは最寄り駅から離れているため、自家用車か鶴見駅より臨港バス等を使うのが便利。

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パナソニック モバイルコミュニケーションズ

パナソニック モバイルコミュニケーションズ株式会社は、松下グループの移動体通信端末のメーカーである。 松下グループ内や周辺地域ではPMCの略称で呼ばれる。

1958年1月17日 大阪府北河内郡門真町(当時)に松下通信工業株式会社設立。(松下電器産業より分離)
1960年 本社を横浜市港北区綱島町(当時)に移転。
1968年 当時の電電公社にポケットベル(ページャー)を納入開始。(移動体通信端末事業へ参入。事実上の創業)
1968年 東京、大阪証券取引所第二部へ上場。
1969年 東京、大阪証券取引所第一部へ指定。
1991年 BTRONを使った教育用PC「PanaCAL ET」を発売。ハードウェアにはPanacomM530が中核として利用され、ET-Masterという名称のOSを搭載。
2002年9月25日 株式上場廃止。
2002年10月1日 株式交換により、松下電器産業の100%子会社となる。
2003年1月1日 松下グループの再編により、携帯電話端末事業に特化したパナソニック モバイルコミュニケーションズ株式会社が発足。のちに、本社を綱島から佐江戸地区へ移転。(システム事業や自動車機器事業 (カーオーディオ、カーナビゲーション、ETC装置など) などは松下電器産業、固定電話(PHSデジタルコードレス電話親機(VE品番)含む)、インターホン事業(VL品番)、PBX事業はパナソニック コミュニケーションズ(旧・九州松下電器の存続法人)に移管。また、このとき松下電器産業のヘルスケア社に継承された、補聴器や超音波診断装置などの医療機器事業は、2007年4月1日付けでヘルスケア社ごとパナソニック四国エレクトロニクスに継承された)
2006年8月 NEC、TIなどと合弁で、通信プラットフォーム開発会社のアドコアテックを設立。
2006年10月 NECと合弁で、プラットフォーム開発会社のエスティーモを設立。
以上のように、現在の形になったのは2003年1月であるが、松下通信工業の法人格を引き継いでいることから、会社案内における設立日は松下通信工業のもの(1958年1月)としている。

拠点
本社 神奈川県横浜市都筑区佐江戸町600番地
YRP研究所 神奈川県横須賀市光の丘5番3号
静岡工場 静岡県掛川市淡陽18番地(掛川東部工業団地エコポリス内)

製品


国内向けは現在、NTTドコモとauとソフトバンクモバイルの三社に端末を供給している。





また、パナソニック モバイルコミュニケーションズと NECは、第三世代携帯電話向けの端末・技術を共同で開発してきており、現在ともにNTTドコモ向けのFOMA端末のOSにLinuxを採用している。ちなみに折りたたみ型携帯電話が主流になる前はパナソニックが携帯電話シェア率1位であったが、折りたたみ型携帯電話が主流になると携帯電話シェア率をNECに譲ることになった。2006年3月の調査では再び携帯電話シェア率が1位に返り咲いた。しかし、2006年上半期の調査では、SHARPに携帯電話シェア率1位を明け渡すこととなった。

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コナカ



株式会社コナカ(かぶしきがいしゃコナカ)は、紳士服量販店「紳士服のコナカ」などを展開する日本の企業である。紳士服業界では、第3位の規模である。青森県から兵庫県迄、東日本を中心に展開している。

1952年9月 湖中久次が神戸市生田区(現在の中央区)にて個人営業として創業。
1954年1月 神戸百貨株式会社を設立。
1960年8月 系列の一文字屋と合併して、日本テーラー株式会社となる。
1973年11月 店舗小売の子会社(80%出資)として株式会社新紳を設立。
1978年9月 郊外型店舗1号店を南町田(東名横浜インター店)に出店。
1984年2月 日本テーラー株式会社はコナカ株式会社に商号変更。
1984年5月 株式会社新紳は株式会社コナカに商号変更。
1988年9月 オリジナルブランドドナートヴィンチを開発。翌年9月より販売開始。
1989年4月 カジュアル専門店1号店として南行徳店開店。
1989年10月 全店POSレジ設置。POSシステム稼動。
1991年2月 本社を横浜市戸塚区に移転。
1991年3月 東戸塚総本店開店。
1991年10月 株式会社コナカを存続会社として、コナカ株式会社、株式会社紳士服のコナカ、コナカ商事株式会社の4社が合併。店舗数186店舗となる。
1992年12月 横浜市戸塚区に物流センター竣工。
1994年6月 カジュアル専門店の屋号をバルボに変更。
1996年3月 店頭売買銘柄として登録し株式を公開。
1997年7月 東京証券取引所第2部に上場。
1997年10月 全店顧客管理システム導入。
1998年5月 コナカエンタープライズ株式会社を設立。フランチャイズ契約により、ベーカリーレストランサンマルクを経営。
1998年7月 ロンドンデザイナースブランドジョンピアースを開発し、同年10月より独占販売開始。
1999年12月 仙台市に紳士服のコナカ、カジュアルハウスバルボ、レストランサンマルクの複合店コナカワールド仙台西多賀店開店。
2000年3月 東京証券取引所第1部銘柄に指定。
2001年4月 ツープライスショップスーツセレクト21を横浜市に開店。
2002年9月 ザ・ウールマークカンパニーとの共同開発で夢の防シワスーツを発売。
2003年1月 株式会社フタタと資本・業務提携。
2003年6月 インターネット通販を開始。
2005年7月 株式会社フタタが自己株式を処分しその株式を取得して22.06%となり、持分法適用会社とする。
2006年6月 カスタムオーダーショップスマートクロージングO・S・Vを神田に開店。
2006年10月 ザ・ウールマークカンパニーとの共同開発でエアーフィットスーツを発売。
2006年12月 株式交換により株式会社フタタと経営統合。完全子会社とする。
2007年6月 JR東日本の電子マネーSuicaと提携、首都圏50店舗に導入する。
2007年10月 クリエイティブディレクターに佐藤可士和氏を起用し、SUIT SELECTをブランドリニューアル。
2007年11月 CMキャンペーンキャラクターに掘北真希を起用。
2007年11月 株式会社フィットハウスと業務資本提携を発表。
2007年12月 世界初、ニオイや汚れを簡単に洗い流せる「シャワークリーンスーツ」の発売を発表


展開店舗及びグループ会社


株式会社コナカ
紳士服のコナカ
スーツセレクト21(SUIT SELECT21)
ジーンズ&カジュアル バルボ
スマートクロージングO・S・V
SUIT SELECT
株式会社フタタ
紳士服のフタタ
スタジアム
コナカエンタープライズ株式会社 - 飲食業の店舗運営を行う完全子会社。
ベーカリーレストラン サンマルク(FC店舗)
大衆食堂 半田屋
スペースクリエイト 自遊空間 - 複合カフェ(マンガ喫茶・ネットカフェ)。2005年9月より店舗の遊休スペース活用目的で参入。


本社所在地 244-0801
神奈川県横浜市戸塚区品濃町517-2
設立 1973年11月28日
業種 小売業
事業内容 紳士服の販売
代表者 代表取締役社長 湖中謙介
資本金 53億0,569万4,000円
売上高 単体:487億1,849万円(2007年9月期)
連結:569億2,858万円(2007年9月期)
従業員数 1,158人(2007年9月)
決算期 毎年9月30日

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岡村製作所


岡村製作所(おかむらせいさくしょ)は、日本の家具・産業用機器等の製造を主な業務とする企業である。

「オカムラ」の略称で呼ばれる。本社は神奈川県横浜市に所在。東京都港区赤坂にも事業拠点がある。

スローガンは「よい品は結局おトクです」。
太平洋戦争(大東亜戦争)敗北によって業務を失った航空機メーカー・日本飛行機の旧社員であった吉原謙二郎(創業者)たちによって横浜市磯子区岡村町に1945年10月に創業され(会社設立は1946年)、金属加工技術を活かしたアメリカ軍向けのスチール家具納入で業績を高めた。

事務用椅子をはじめとするオフィス向け家具類では高いシェアを持つ、特に官公庁に強い。店舗陳列什器の分野においても高いシェアを持ち、国内唯一のフルラインメーカーでもある。大手、中小各スーパーなどで使われている。また、建具の製造や設置工事も行っている。

また1949年からは、日本で最も早い時期にトルクコンバーターの開発に取り組み、これを素地として産業用機器の開発でも地歩を固めた。

1957年~1960年にかけては、トルクコンバーター搭載の前輪駆動小型自動車「ミカサ」を生産した。これは、日本初の自動変速機搭載車として注目される存在であったが、自動車の販売力が弱かった上に、メインバンクがホンダを優先し岡村にはオフィス家具に専念するようすすめたため、サービスカー(ライトバン)仕様を500台強、オープン2座のツーリング仕様を10台ほど販売し終了している。

1953年に、日本大学と共同で、日大/岡村N-52という「並列複座の軽飛行機」を製作している。

尚、同社はかつて松下電工と親密だったが、近年はむしろ新日本製鐵と緊密である。また、三菱東京UFJ銀行(旧東京三菱銀行)がメインバンクとなっていたり三菱商事と取引関係にあったりと、三菱グループとも結構近しい関係にあるようだ。


主要な製品


デスクチェア
コンテッサ
世界中で絶賛されているアーロンチェアに対抗すべく制作された、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のデロリアンのデザイナーであるジョルジェット・ジウジアーロによる、革新的なデザインの多機能デスクチェアである。
アーロンチェアと比較では、ヘッドレストが追加できる事で、リクライニング時の首・肩への負担をなくす事ができるのが、大きな優位点である。流線型を主体とした未来的なデザインは、同業のデザイナーからも高く評価されている。
また、アーロンチェアは大柄な米国人のために作られているため、日本人にはコンテッサの方が理想に近いとする評価も見られる。一方で、アーロンチェアはサイズが A, B, Cと3種類あり(サイズAは身長140-160センチ程度の小柄な人向け、サイズBは160-185センチ程度の中肉中背の人向け、サイズCで185-200センチ程度で大柄の人向け)サイズを適切に選択することで対応出来るとの評価もある。
総じて結論づければ、アーロンチェアは「前傾姿勢での作業」を重視したチェアであり、コンテッサは「後傾姿勢でのリラックス状態による思考支援」を重視したチェアと言える。
バロン
コンテッサの弟分として、同じくジョルジェット・ジウジアーロにより制作された、多機能デスクチェア。コンテッサと比べると、価格も比較的に手頃になり、ヘッドレストも大きく柔らかく、ゆったりとリラックスできる。どちらも高級チェアの部類であり、コンテッサよりもバロンを評価する者も多く、購入時には実際に試して選択すべきである。

略称 オカムラ
本社所在地 〒220-0004
神奈川県横浜市西区北幸1丁目4-1
設立 1946年7月15日
業種 その他製品
資本金 186億7000万円
(2006年3月31日現在)
売上高 1991億5300万円(単体)
2022億6600万円(連結)
(2006年3月期)
従業員数 単体:2,679名
連結:3700名(2006年3月31日現在)

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国立病院機構

国立病院機構(こくりつびょういんきこう、正式名称:独立行政法人国立病院機構、略称:NHO「National Hospital Organization」)は、日本の厚生労働省所管の特定独立行政法人で、医療機関等を運営する統括組織である。2004年4月1日、厚生労働省所管の施設等機関であった旧国立病院・療養所(国立高度専門医療センターと国立ハンセン病療養所を除く)を引き継ぐ形で、独立行政法人(平成14年法律第191号「独立行政法人・国立病院機構法」に基づく)として発足した。医療業務のほか、医療に関する調査・研究、並びに医療技術者の育成などを目的とし運営している。

日本全国に146の病院・医療機関、73の附属看護学校・助産学校等、約60000床の病床、約46000人の職員を有している。本部は東京都目黒区東が丘に所在し、全国を6箇所のブロックに分け「本部ブロック事務所」を配置している。

旧国立病院・療養所の施設は、1986年の「国立病院・療養所の再編成計画」の策定から約20年で、およそ3割が削減された。現在ある国立病院機構の施設の多くは、明治~第二次世界大戦期に、政策的に開設された陸海軍病院、傷病軍人療養所、結核療養所等が起源となっている。

明治
陸軍、海軍が病院を開設 (衛戌病院等)
陸軍省所管の廃兵院が病院開設 (傷病軍人療養所)

大正

廃兵院を内務省へ移管

昭和

1930年代~ 各地に県立の結核療養所を開設
1934年 廃兵院を傷兵院と改称
1936年 衛戌病院を陸軍病院と改称
1938年 厚生省設置に伴い傷兵院を厚生省外局の傷兵保護院に所属
1939年 傷病軍人療養所等の規模拡大に伴い傷兵保護院を軍事保護院に改称
1942年 日本医療団令(勅令第427号)公布、日本医療団が結核療養所を開設
1943年 軍事保護院施設を日本医療団へ統合
1945年 厚生省へ移管(国立病院・療養所として統一し発足)
1986年 国立病院・療養所の再編成計画を策定(全国239の施設(国立高度専門医療センター含む)を87施設削減する計画)
1987年 国立病院等の再編成に伴う特別措置に関する法律成立

平成

1999年 国立病院・療養所の再編成計画の見直し実施
2001年 厚生労働省所管となる
2004年 独立行政法人国立病院機構に移行

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横浜家庭裁判所

横浜家庭裁判所(よこはまかていさいばんしょ)は、神奈川県横浜市中区にある日本の家庭裁判所のひとつである。神奈川県を管轄しており、横浜家庭裁判所には横浜市中区に置かれている本庁のほか、川崎市川崎区、相模原市、横須賀市、小田原市の4市に家庭裁判所と地方裁判所の支部を設置している。

担当検察庁 横浜地方検察庁
上位裁判所 東京高等裁判所
下位裁判所 横浜簡易裁判所、川崎簡易裁判所、相模原簡易裁判所
横須賀簡易裁判所、小田原簡易裁判所、神奈川簡易裁判所
保土ヶ谷簡易裁判所、鎌倉簡易裁判所、藤沢簡易裁判所
平塚簡易裁判所、厚木簡易裁判所
所在地 横浜市中区日本大通9

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横浜地方裁判所


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担当検察庁 横浜地方検察庁
上位裁判所 東京高等裁判所
下位裁判所 横浜簡易裁判所、川崎簡易裁判所、相模原簡易裁判所
横須賀簡易裁判所、小田原簡易裁判所、神奈川簡易裁判所
保土ヶ谷簡易裁判所、鎌倉簡易裁判所、藤沢簡易裁判所
平塚簡易裁判所、厚木簡易裁判所
所在地 横浜市中区日本大通9

横浜地方裁判所(よこはまちほうさいばんしょ)は、神奈川県横浜市中区にある日本の地方裁判所のひとつである。神奈川県を管轄しており、横浜地方裁判所には横浜市中区に置かれている本庁のほか、川崎市川崎区、相模原市、横須賀市、小田原市の4市に地方裁判所と家庭裁判所の支部を設置しているほか、前述の5箇所にくわえ横浜市神奈川区、保土ヶ谷区、鎌倉市、藤沢市、平塚市、厚木市の6箇所を加えた11箇所に簡易裁判所を設置している。また川崎を除く支部の所在地には、検察審査会も設置されている。

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横浜能楽堂


能楽


神奈川県横浜市西区紅葉ヶ丘27-2 アクセス: JR根岸線・地下鉄「桜木町駅」から徒歩15分

横浜能楽堂は、今年から毎月第2日曜を「狂言の日」と銘打ち、狂言だけの定期公演を行っています。2曲に、狂言師による解説が付いて2000円という手ごろな料金でたのしめます。

-横浜観光情報-


横浜美術館「GOTH-ゴス-」展
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2007/12/22(土)~2008/03/26(水)


音楽、ファッション、映画など、様々なシーンで存在する「ゴス/ゴシック」現象。本来は中世ヨーロッパの芸術様式を指す言葉が、現在ではある種の生き方を示す言葉としても使われています。本展では、立体、絵画、映像作品など約250点を通じて、現代美術におけるゴス/ゴシックを紹介します。

会場:横浜美術館

-横浜観光情報-

よこはま花と緑のスプリングフェア2008 チューリップまつり


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2008/04/18(金)~2008/04/20(日)
10:00~17:00(初日のみ~18:00)

横浜の春を彩る花と緑のフェア。
色も形もさまざまなチューリップが、16万本も咲き競う横浜公園で、花と緑の展示や即売、園芸用品の販売などが行われます。19日、20日にはもちつき大会やのだて、木工体験ができるイベントなども開催されます。

会場:横浜公園


-横浜観光情報-
三溪園「観桜の夕べ」



2008/03/29(土)~2008/04/07(月)
9:00~21:00(入園は20:30まで)


園内の桜が一斉に咲き誇るこの時期に合わせ、外苑では開園時間を延長して桜の風情をお届け。旧燈明寺三重塔などがライトアップされ、園内は、昼間とは全く違った幻想的な風景が広がります。春の夜に浮かぶ桜の花と古建築が織り成す優美な世界をお楽しみください。

※4月5日(土)、6日(日)シャトルバスの運行有り(根岸駅⇔本牧市民公園)
根岸駅:(9)番乗り場 発11:00~20:00 (15分間隔で運行)
本牧市民公園:駐車場横 発11:15~21:15(15分間隔で運行)

※雨天時は運休

会場:三溪園

-横浜観光情報-

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横浜市歌



横浜市歌(よこはましか)は、1909年(明治42年)に作られた横浜市の市歌。

横浜市歌は、1909年(明治42年)7月1日に横浜港の新港埠頭で行われた「開港五十年記念大祝賀会式典」の席で、初めて披露された。以来、市民に広く歌い継がれている。作詞は森林太郎(森鴎外)、作曲は東京音楽学校(現、東京藝術大学)教師・南能衛(よしえ)。この曲は、横浜市が東京音楽学校に仲介を委託し、南が作った旋律の上に、森が歌詞を作り、完成させたものである。森に対する作詞謝礼は100円、南に対する作曲謝礼は50円だった。

現在も市立の小学校では、校歌とともに歌唱指導される。開港記念日(6月2日)や卒業式、市大会などの行事では演奏・斉唱される。横浜市立大学の入学式及び卒業式でも演奏され、横浜市の式典や市職員の会合などでも愛唱される。


歌詞

『横浜市歌』    作詞:森林太郎(森鴎外) 作曲:南能衛
わが日の本は島國よ 朝日輝ふ海に
わがひのもとはしまぐによ あさひかがよううみに
連り峙つ島々なれば あらゆる國より舟こそ通へ
つらなりそばだつしまじまなれば あらゆるくによりふねこそかよえ
されば港の数多かれど 此横浜に優るあらめや
さればみなとのかずおおかれど このよこはまにまさるあらめや
むかし思へば苫屋の烟 ちらりほらりと立てりし處
むかしおもえばとまやのけむり ちらりほらりとたてりしところ
今は百舟百千舟 泊る處ぞ見よや
いまはももふねももちふね とまるところぞみよや
果なく榮て行くらん御代を 飾る寶も入り來る港
はてなくさかえてゆくらんみよを かざるたからもいりくるみなと
1909年(明治42年)6月17日付「横浜貿易新報」より。


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伊勢佐木長者町駅



伊勢佐木長者町駅(いせざきちょうじゃまちえき)は、神奈川県横浜市中区長者町五丁目にある横浜市営地下鉄ブルーライン(1号線)の駅である。駅番号は16。

長者


島式ホーム1面2線の地下駅。かつてはこの駅が起点だったこともあり、阪東橋駅側に渡り線がある。そのため、非常時には当駅で折り返し運転が可能な構造ではあるが、このような使用例は未だ見られていない。

駅名の由来


建設時の仮称駅名は「長者町」であった。これは駅設置場所の町名を採ったものである。正式駅名決定時に、近隣の有数な商業地でもある伊勢佐木町の名前も採って「伊勢佐木長者町」とした。また、路線建設中に青江三奈の歌唱による『伊勢佐木町ブルース』が大ヒットした影響もあると思われる。

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ハングル文字のネオン街


クレイジーケンバンドの歌の歌詞どおり、この長者町の裏手は、外国人バーや風俗店が軒並み並ぶ、横浜。まさに天国と地獄が同居する街。


横浜探偵物語





150年前の横浜 歴史体験まち歩きツアー

「ペリーはこの海岸線を見た」




横浜シティガイド協会による、150年前の横浜をたどる歴史体験まち歩きツアーです。12回シリーズの今回は、「ペリーはこの海岸線を見た」と題して、金沢エリアを巡ります。

コース概要:金沢シーサイドライン八景島駅~八景島~小柴崎緑道~元米軍小柴石油ターミナル~長浜・野口英世記念公園
(所要時間は約2時間半)

申込方法:詳細はホームページにて
参加費:500円(保険料を含む)

各コースにガイドが同行します。

2008/03/23(日)
9:30集合、9:45~10:00頃スタート

-横浜イベント情報-



横浜赤レンガ「LEGENDARY91+6th Anniversary」開催


来年の横浜開港150周年、倉庫として91年、開業6周年を迎える横浜赤レンガ倉庫で、記念イベント「LEGENDARY91+6th Anniversary」を開催。毎年恒例の花イベント「フラワーガーデン2008」は「出航」をテーマに3月20日~4月20日まで開催。約1200㎡のイベント広場は、世界を航海するイメージで地球や灯台などをモチーフにした8つのゾーンに分かれ45種類、約147000輪の花が咲き誇ります。また、2号館の各店舗では6周年記念の限定商品などの販売、モータースポーツのモデルカー展示など、様々なイベントを開催予定です。

2008/03/20(木)~2008/06/01(日)


-横浜イベント情報-



ゴダイゴ





GODIEGO(ゴダイゴ)は1976年に結成され、人気を集めたバンドです。
日本のロックバンドの草分け的存在。

そのゴダイゴの数々の懐かしい曲が、今世代を超えて大ヒット中!
ゴダイゴのメンバーのミッキー吉野さんは、横浜生まれ!
そこで今日はゴダイゴのご紹介をします。


メンバー


ミッキー吉野(キーボード、ヴォーカル、バンドリーダー)(1976-1985、1999-2000、2006-)

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タケカワユキヒデ(ヴォーカル、キーボード)(1976-1985、1999-2000、2006-)

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浅野孝已(ギター、ヴォーカル)(1976-1985、1999-2000、2006-)

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スティーヴ・フォックス(ベース、ヴォーカル)(1976-1980、1999-2000、2006-)

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トミー・スナイダー(ドラムス、ヴォーカル)(1977-1985、1999-2000、2006-)

ゴダイゴ


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1976年、アルバム『GODIEGO (I、Suite;GENESIS/新創世紀)』でデビュー。
1977年、最高傑作といわれるアルバム『DEAD END』を発表。
1978年にテレビ番組『西遊記』のエンディングテーマ「ガンダーラ」、1979年には同主題歌「モンキー・マジック」、ユニセフ国際児童年協賛曲「ビューティフル・ネーム」、 映画『銀河鉄道999』主題歌、『西遊記II』エンディングテーマ「ホーリー・アンド・ブライト」をリリースした。「ガンダーラ」と「モンキー・マジック」が7週間にわたり同時にベスト10にランクイン。また、「ビューティフル・ネーム」,「ハピネス」(タケカワのソロ名義),「はるかな旅へ」,「銀河鉄道999」の4曲が同時にベスト20にランクインするなど大ヒットを連発した。なお、この時期には「ガンダーラ」,「モンキー・マジック」,「銀河鉄道999」の3曲で通算9週間2位という珍記録も残した。
人気を博した彼らもスティーヴ・フォックスが宣教師活動のために脱退した1980年春頃から徐々に人気に陰りが出始め、1985年に解散する。当時「インターミッション(活動休止)」と、公式には述べていたが後に「あれは当時の流行で、実質上の解散であった」と、ミッキー吉野が述べている。
その後、ゴダイゴと名のつくバンドは散発的に吉野の手によって結成されたが、解散以降再びソロで活動していたタケカワを欠いた再結成は興行的には成功しなかった。
1999年-2000年、タケカワもメンバーとして参加し、1999年は、3ヶ月限定で再結成。NHK紅白歌合戦にも出場した。翌2000年は、前年のツアーであまり廻ることが出来なかった西日本を中心に限定的な活動を行った。その後もテレビ出演のために単発で数回再結成していた。
ゴダイゴ結成30周年にあたる2006年、奈良・東大寺でオリジナル・メンバーによるコンサートが行われ、これを機に、一時的ではない恒久的な再結成を果たす。マキシシングル2枚とDVD1枚をリリースした。
2007年、3月16日東京芸術劇場で、ゴダイゴを含め総勢80人のミュージシャンによる「2007 TOKYO 新創世紀」を演奏。8月16日には神宮外苑花火大会でライブを行い、神宮球場に集まった観客を魅了した。1曲目から「モンキーマジック」を披露し大歓声を浴びると、タケカワは「気持ちは花火かもしれないけれど、ゴダイゴを楽しんでね」と和みムード。そのまま「ビューティフル ネーム」や「ガンダーラ」、「銀河鉄道999」などヒットナンバー全6曲を熱唱した。2007年以降も新たな楽曲を発売する予定である。
ちなみに、名前の由来は、英語で書くと“GODIEGO”となり、「行って、死んで、行く」つまり七転び八起き、あるいは輪廻転生を思わせることから来ている。また、「GOD」「I」「EGO」と分けて「神と自分のエゴイズム」という意味もある。後醍醐天皇にも掛けているとされる。

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日産自動車




日産自動車株式会社(にっさんじどうしゃ) (英語名: Nissan Motor Co., Ltd.) は、東京都中央区に本社を置く自動車メーカーである。

通称とブランド名は「日産(NISSAN)」。日本国外の一部では、高級車ブランドである「インフィニティ(INFINITI)」も展開する。

トヨタ自動車、本田技研工業とともに日本の3大自動車メーカーに数えられるが、1999年以降はフランス・ルノー社の連結子会社となった。

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市場情報 東証1部 7201
NASDAQ NSANY

略称 日産
本社所在地 104-8023
東京都中央区銀座六丁目17番1号※
設立 1933年12月26日
業種 輸送用機器
事業内容 自動車 (現行車種を参照)
代表者 取締役共同会長兼社長兼最高経営責任者 カルロス・ゴーン
資本金 6,058億1,400万円
(2007年3月31日現在)
売上高 単体:3兆6,089億3,400万円
連結:10兆4,685億8,300万円
(2007年3月期)
総資産 12兆4,022億800万円
(2007年3月期)
従業員数 単体:3万2,117人
連結:16万9,644人

決算期 毎年3月31日
主要株主 ルノー:44.3%
主要子会社 日産車体株式会社
ジヤトコ株式会社

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<愛子さま>

幼稚園おわかれ遠足 雅子さまと横浜の公園へ


皇太子ご夫妻の長女愛子さまは6日、学習院幼稚園の年長組おわかれ遠足で雅子さまに伴われ、横浜市青葉区の公園「こどもの国」を訪れた。公園は天皇、皇后両陛下の結婚を記念して65年に開園、皇太子さまも学習院幼稚園時代に訪れた。

 ピンクの上着を着てリュックを背負った愛子さまは午前10時半過ぎ、雅子さまと手をつないで入園した。宮内庁によると、愛子さまは園内にあるポニー牧場で乗馬し、梅林付近でお弁当を食べ友達と過ごしたという

(毎日新聞)


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コカ・コーラセントラルジャパン






コカ・コーラセントラルジャパン株式会社(英訳名Coca-Cola Central Japan Co,Ltd.)は神奈川県、静岡県、山梨県、愛知県、岐阜県、三重県で展開するコカ・コーラのボトラーである。

元は富士コカ・コーラボトリング(前者3県)と中京コカ・コーラボトリング(後者 東海3県)で運営されていたのを2001年6月に持株会社として経営統合し設立し、2005年1月に正式に合併・広域化したものである。筆頭株主は三菱商事。日本国内の「アンカーボトラー」としてはコカ・コーラウエストジャパンに次いで2番目となる。

茨城県、栃木県、千葉県は利根コカ・コーラボトリング、群馬県、埼玉県、新潟県は三国コカ・コーラボトリング、東京都は東京コカ・コーラボトリング、富山県、石川県、福井県、長野県は北陸コカ・コーラボトリングが担当する。

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種類 株式会社
市場情報 東証1部 2580 2001年6月28日上場
名証1部 2580 2001年6月28日上場

本社所在地 220-8141
神奈川県横浜市西区みなとみらい二丁目2番1号
電話番号 045-222-5850
設立 2001年6月29日
業種 食料品
事業内容 清涼飲料水
代表者 高橋 顕三 (代表取締役社長)
資本金 64億9,900万円(2007年1月1日現在)
売上高 単独1,886億55百万円
連結2,054億48百万円(2007年12月期)
総資産 単独1,094億92百万円
連結1,096億31百万円(2007年12月期)
従業員数 単独1,722名 連結2,898名
決算期 12月
主要株主 三菱商事株式会社 22.48%
日本マスタートラスト信託銀行株式会社退職給付信託 9.34%
ザ コカ・コーラ エクスポート コーポレーション 5.00%
主要子会社 セントラルジャパンロジスティックス株式会社
セントラル ジャパン テクノサービス株式会社 他

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横浜に本社を置く企業

相模鉄道



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相模鉄道株式会社(さがみてつどう、英称:Sagami Railway Co.,Ltd.、略称・相鉄(そうてつ、SOTETSU))は神奈川県に路線網を持つ鉄道会社である。相鉄グループの中核企業であり、大手民鉄に含まれる。本社所在地は横浜市西区北幸二丁目9番14号。パスネットの符丁はSTである。


種類 株式会社
市場情報 東証1部 9003

略称 相鉄(そうてつ)
本社所在地 220-0004
神奈川県横浜市西区北幸二丁目9番14号
電話番号 045-319-2057
設立 1918年(大正7年)1月4日(1917年(大正6年)12月18日創業)
業種 陸運業
事業内容 旅客鉄道事業 他
代表者 鳥居 眞(代表取締役社長)
資本金 311億6,243万4,708円(2007年3月31日現在)
売上高 438億円(単独)
3,026億円(連結)共に2006年度
従業員数 1,593人(2007年3月31日現在)
決算期 毎年3月31日
主要株主 小田急電鉄 7.55%(2005年3月31日現在)
主要子会社 相鉄ローゼン株式会社
相鉄不動産株式会社
相鉄プロパティーズ株式会社
相鉄ホテル株式会社
横浜地下街株式会社
相鉄企業株式会社
横浜ケーブルビジョン株式会社
相鉄バス株式会社
相鉄自動車株式会社


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花月園競輪場



花月園競輪場(かげつえんけいりんじょう)は神奈川県横浜市鶴見区にある競輪場で、場外施設を除けば横浜市内唯一の公営競技場である。主催は神奈川県競輪組合。実施は南関東自転車競技会。施設所有は花月園観光株式会社。

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1950年(昭和25年)5月18日、当時、東洋一といわれた旧花月園遊園地の跡地に開設された。1989年は日本選手権競輪が、1997年は共同通信社杯競輪が、2001年は全日本選抜競輪が、2006年にはオールスター競輪が、それぞれ開催された。記念競輪(GIII)が行われる年は11月に「菊花賞典」を行うのが通例となっている。

9月には『伊藤繁杯争奪戦』が開催されているが、これは現役時代はオールスター競輪を優勝するなどビッグレースで活躍した伊藤繁を称えて開催されているもの。

マスコットはカモメの「Lucky花月くん」(それにちなんでラッキー花月くんカップが開催されている)と、ヴァーチャルイメージガールの「花月園あすか」。また競輪場のテーマ曲があり、歌唱はダ・カーポ。

2004年の7月からはA級ツイントーナメントを、前半が「ジャックトーナメント」、後半が「クイーンズトーナメント」の名称で実施していたが、2005年12月23日をもって終了した。

2007年8月の開催では、最終レースが17:30に繰り下げるというスケジュールの下で開催された。 これは、この競輪場は照明設備を有さず、近隣の川崎競輪場や平塚競輪場のようなナイターが実施できないため、照明設備を用いないで、ナイターに近い形で開催できるようしたものである。

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横浜港





横浜港(よこはまこう)は、神奈川県横浜市の東京湾岸にある港湾である。港湾管理者は横浜市。港測法上は京浜港横浜区と称する(京浜港は、他に川崎区(川崎港)と東京区(東京港)がある)。1859年7月1日(旧暦:安政6年6月2日)開港。金港の別称を持つ。

関税法施行令上の開港で日本の主要な国際貿易港(五大港)のひとつ。スーパー中枢港湾の指定を東京港と共に受けている。

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黒船来航と横浜開港


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1853年(嘉永6年)、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が浦賀沖に来航(黒船来航)。翌1854年(嘉永7年)には再度来航し、幕府の態度が表明されるまでの間、六浦湊外周の小柴舳沖(武蔵金沢藩(六浦藩)=横浜市金沢区)に2ヶ月間投錨。厳重な態度の幕府や、乙舳海岸に陣を張り物々しい六浦藩とは裏腹に、民間レベルでは、漁師の獲った魚や艦隊側のビスケットを差し入れし合うなど、いち早くフランクな異文化交流が行われていたと記録されている。その後、幕府は神奈川湊の対岸にある武蔵国久良岐郡横浜村に応接所を設置してペリー一行を上陸させ、協議に臨んだ結果、日米和親条約(神奈川条約)を締結した。その後、1858年(安政5年)には神奈川沖のポーハタン号上で結ばれた日米修好通商条約(安政五カ国条約)により神奈川の開港が定められた。

幕府は、松代藩士佐久間象山、外国奉行岩瀬忠震らの意見により、東海道に直結する神奈川宿・神奈川湊を避け、対岸の横浜村に開港場を新設することを決定。対して諸外国の公使は神奈川の開港を求め、神奈川宿周辺に領事館を開いた。しかし、開港後は居留地で取引が活発化して神奈川湊は衰退し、居留地が外国人向けに整備されるなど既成事実が積み重なり、諸外国も横浜開港を受け入れた。

横浜沖はすぐに水深を増し、南に野毛山があるため風を防ぐ天然の良港であった。とはいえ当時の横浜村は砂州の上に形成された半農半漁の寒村で、居留地、波止場、神奈川運上所(税関)、神奈川奉行所などを整備し、東海道から横浜村に至る脇往還(よこはま道)が短期間で造成された。これらの事業や初期の町作りを担ったのは、神奈川宿・保土ヶ谷宿や周辺の村々の人たちだった。横浜開港の成功の背景には、神奈川湊及び同宿によって培われた経済的基盤が存在した。下田出身の写真家・下岡蓮杖の浄瑠璃「横浜開港奇談 お楠子別れの段」では、開港の功労者として吉田新田の吉田勘兵衛、保土ヶ谷宿本陣家の軽部清兵衛、石川村名主の石川徳右衛門を挙げている。

1859年7月1日(旧暦:安政6年6月2日)、横浜港は開港し、貿易を開始した。横浜市は6月2日を開港記念日としている。開港に先立ち、幕府は横浜への出店を奨励する御触を出し、江戸の大商人や神奈川湊など江戸湾内の廻船問屋のほか、全国から一旗揚げようと意気込む商人が集まり、横浜は急速に発展した。

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