横浜デートコース・ショッピングコース・グルメコース・横浜ベイエリア・中華街・横浜元町・山下公園・夜景スポット等満載

2017/09123456789101112131415161718192021222324252627282930312017/11

2017/09123456789101112131415161718192021222324252627282930312017/11

2017/09123456789101112131415161718192021222324252627282930312017/11

2017/09123456789101112131415161718192021222324252627282930312017/11

2017/09123456789101112131415161718192021222324252627282930312017/11

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


美空ひばり


神奈川県横浜市磯子区滝頭の魚屋で父・加藤増吉、母・喜美枝の長女として生まれた。幼い頃より歌の好きな両親の影響を受けひばりは歌謡曲・流行歌を唄うことの楽しさを知る。

1943年6月、第二次世界大戦の戦時中に父・増吉が出征となり壮行会が開かれ、ひばりは大好きな父を思い『九段の母』を唄った。壮行会に集まった者達がひばりの歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝はひばりの歌唱力に人を引き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊からひばりの唄による慰問活動を始める。

終戦間もない1945年、喜美枝がひばりを引き続き唄わせるために八方手を尽くし、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。近所の公民館・銭湯に舞台を作り、ひばり8歳のときに美空和枝の名で初舞台を踏む。

1946年、NHK「素人喉自慢」に出場し、『リンゴの唄』を歌うが、鐘一つで不合格。同年9月、横浜市磯子のアテネ劇場で初舞台。

1947年、横浜の杉田劇場に漫談の井口静波、俗曲の音丸の前座歌手として出演。以来、この一行と地方巡業するようになる。

1948年2月、ひばりは神戸松竹劇場に出演し、山口組三代目田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られる。同年5月、浪曲歌謡漫談で有名な川田義雄(のちの川田晴久)にその才能を見込まれ、川田一座に参加。(ひばりは師匠といえるのは父親と川田先生だけと後に語っており、こぶしは川田節から学んだと言う)そこで当時のスター歌手笠置シズ子の物真似(歌真似)が非常にうまくベビー笠置といわれ拍手を浴びる。純粋に「かわいい」と見る層と同時に、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。詩人で作詞家のサトウハチローが「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いたことは有名。ひばりはこの記事を長く保存しサトウに敵愾心を持っていたと言われるが、後にサトウと和解している。同年9月、喜劇役者・伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた宝塚の岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。横浜国際劇場の支配人だった福島通人がその才能を認め、マネージャーとなり、舞台の仕事を取り、次々とひばり映画を企画することに成功する。

1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・灰田勝彦)で笠置の『セコハン娘」、『東京ブギウギ』を歌い踊る子供が面白がられ、3月には東横映画『喉自慢狂時代』(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手として正式にレコードデビュー(7月30日)を果たす。続いて『悲しき口笛』が大ヒット。同名の映画も松竹で製作され、わずか12歳で映画主演を果たした。

1950年、川田晴久と共に二世部隊記念碑建立基金募集公演のため渡米。帰国してすぐに二人の主演で『東京キッド』に出演。同名の主題歌もヒット。

1951年、松竹『あの歌超えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じる。実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田をお兄ちゃんと呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がなる。同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。以後これを持ち役とする。

1953年、『お嬢さん社長』に主演。喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、その後、周りもそう呼ぶように。中村錦之助を歌舞伎界からスカウトして映画「ひよどり草紙」で共演。錦之助は翌年、東映時代劇の大スターになる。この後、新人男優はひばりの相手役となることで世間に認知され、大スターとなるジンクスが生まれる。市川雷蔵、東千代之介、大川橋蔵、高倉健らもそうである。

1954年にはNHK紅白歌合戦に初出場。1955年には江利チエミ、雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博した。また、松竹・東映製作映画を中心に映画にも多数出演し、歌手であると同時に映画界の銀幕のスターとしての人気を得た。

1956年、ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズの小野満と婚約。その後、この婚約は破棄。

1957年1月、浅草国際劇場にてファンに塩酸を顔にかけられる。紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、渡辺はま子、二葉あき子らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリを務めあげ、当時のひばり・20歳の青春時代には既に芸能界に置ける黄金期を迎えていた。

1958年7月、東映と映画出演の専属契約を結ぶ。同年8月、ひばりプロダクションを設立し、役員に山口組三代目組長田岡一雄が就任。『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、『ひばりの佐渡情話』(1962年)など。続々ヒット映画にも恵まれる。

1960年には『哀愁波止場』で日本レコード大賞歌唱賞を受賞、歌謡界の女王の異名をとるようになった。

-ウィキペディア-
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://sakuranbo66.blog58.fc2.com/tb.php/245-f8e3a371
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。