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武家町だった野毛 奉行所核に役人住む



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開港直後の横浜市街地は、幕府の都市計画に基づいて造られた。市街地建設が始まったのは、開港前年の1858年(安政5年)秋ごろからだったが、都市建設は開港場(現在の中区中心部)の中だけにとどまらず、周辺部にまで及んだ。現在の中区野毛町一帯が市街地化したのも、このころのことで、野毛町は神奈川奉行所の役人たちが多く住む町として都市計画の中に位置づけられた。

 もともと横浜は農村地帯であり、東海道が通っているとはいえ、武士は住んでいなかった。こうした状況は、幕府が外交と貿易都市を管轄する神奈川奉行所を現在の西区戸部町に設置したことで大きく変化した。

 神奈川奉行という役職ができたのは1859年(安政6年)のことで、5人の外国奉行が神奈川奉行を兼務することを命じられた。これ以降、神奈川奉行は貿易に関する取り締まり、外国通貨と日本通貨との引き替え、外国船の出入港手続きなど、外交に関する事務を行うことになった。

 奉行所は戸部町に置かれ、出先機関として、現在の県庁の立っている所に関税事務などを扱う「運上所」が置かれた。また、もともと漁民たちが多く住んでいた野毛浦には奉行所役人の住宅が建設され、小さな漁村はたちまち住宅地へと変貌(へんぼう)した。

 横浜開港資料館が所蔵する幕末の古地図には、大岡川に沿って下級武士の長屋が描かれ、現在の中区中心部に向かう道沿いには「調役」や「組頭」と呼ばれた奉行所の上級役人の住宅が描かれている。さらに、現在の京浜急行日ノ出町方面には、横浜の警備を担当した福井藩の陣屋(後に松代藩に変更)が見つかる。

 神奈川奉行所の役人の人数は、時期によって変動があるが、同心や足軽などを含めれば最大時で1000人を超えた。これに諸藩の武士が加わるわけだから、短期間に横浜は商人の町としてだけでなく、多くの武士が住む町になったことになる。現在の野毛町からは想像もできないが、幕末の野毛町は、大きな「武家町」だったのだ。

 1908年(明治41年)、「横浜貿易新報」は幕末に横浜に住んだ古老の談話を掲載した。その中で古老は当時の野毛町の様子を「陣屋の正面外から野毛通りまでの両側と、山に沿って大聖院の下まで、幾棟となく役宅があって、運上所へ勤める役人が住んでおりましたが、官宅ですから、一面に板塀で取り囲まれていて、その淋(さび)しさといったらひととおりではない。夜になるとまったく人通りが絶えて、ひっそりとなってしまいました」と語っている。

 役人の中には江戸に家族を残して横浜に赴いた者も多かったといい、横浜で病死した者もいたと言われている。激務の中で武士たちは何を見て、激動の時代をどう生きていったのだろうか。(横浜開港資料館 西川武臣) 

-神奈川新聞-


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