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横浜松坂屋の創業者「茂木惣兵衛」


mogi


茂木 惣兵衛(もぎ そうべえ、1827年(文政10年) - 1894年(明治27年))は、横浜の実業家であり、原善三郎と並ぶ明治時代における横浜商人の象徴的人物である。

茂木惣兵衛は上野国高崎(現群馬県高崎市)にて、質商大黒屋茂木惣七の長男として生まれた。
幼名は惣次郎。

10歳で新田郡太田の太物商今井仙七の家に奉公し、才能を認められ支配人に抜擢される。26歳には桐生の絹物商新井長兵衛の養嗣子となった。その後開港間もない横浜における野沢屋庄三郎率いる野沢屋と協力し、生糸商人として頭角をあらわす。万延元年(1860年)に養子として、横浜商人石川屋平右衛門の石川屋を相続するが、文久元年(1861年)9月の野沢屋庄三郎の死をきっかけとし、一年ほどして野沢屋の暖簾を譲り受け石川屋を野沢屋と改称し、野沢屋惣兵衛として独立した。野沢屋庄三郎は諸説あるが、横浜開港の年より生糸を取り扱った横浜最初の生糸売込商人と言われている。

惣兵衛の故郷高崎は生糸の生産地である関東北部や信州からも近く、彼自身生糸に詳しかったことが推測され、その後の地道な努力により幕末の混乱期を乗り切り、明治9年(1876年)には生糸売込商首座となり、それは惣兵衛の生存中ほぼ維持された。温厚で謙虚な人物であり、人相では耳たぶの大きな福耳に特色があったと伝えられている。

晩年は明治16年(1883年)に茂木保平を名乗り保平家を新たに興し、甥の保次郎に惣兵衛家を譲った。茂木惣兵衛は惣兵衛家の家督を持つものが名乗り、三代目まで存在する。

惣兵衛没後野沢屋は茂木商会を合名会社とし、野沢屋呉服店、野沢屋輸出店、野沢屋絹商店、茂木銀行、茂木土地部など、多角的に事業を行い総合総社化し、茂木財閥として大拡張したが、大正の第一次世界大戦後の不況に巻き込まれ、三代目茂木惣兵衛のとき崩壊した。

伊勢佐木


野沢屋の暖簾が消えることを惜しんだ絹物輸出商の亀井信次郎と、茂木家の縁者であった名古屋の瀧家の瀧定助(正太郎)により、野沢屋呉服店は独立し、後に野沢屋百貨店として横浜市民に愛された。
現在の横浜松坂屋である。
横浜松坂屋は茂木惣兵衛を創業者として尊重している。

墓地は横浜市中区の相沢墓地にある。

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